う蝕
田上 順次氏
掲載
―― 今回のPrimer「Dental caries(う蝕) 」について、インパクトはどこにあるとお考えでしょうか?
歯科領域の2大疾患であるう蝕(むし歯)と歯周病のうち、う蝕に関する疫学、病因、予防法、治療法について、国際的な考え方を示した点があげられます。歯を削る治療が中心のう蝕治療は「罹患した歯に対する局所的な対応」ととらえることができますが、本総説では、う蝕を他の臓器の疾患などと同等に「全身的かつ長期的に変化する疾患」として位置付けています。そのうえで、最新の研究成果をもとに歯を保存するための予防的管理の重要性を説き、最新情報を紹介しました。歯科領域の臨床家や研究者だけでなく、社会的にもう蝕という疾患に対する考え方のパラダイムシフトをもたらすものと期待できます。
―― どのような新たな知見や視点が紹介されたのでしょうか?
う蝕は「歯の痛みの主原因」ととらえられがちですが、痛みは長期間を経過して歯にう窩(穴が開いた状態)が形成された後に現れる症状です。よって、う蝕治療はう窩に対する治療、すなわち歯を削って修復することを意味していた時代が長かったのですが、本総説では「う窩はう蝕という疾患の進行した結果であり、う窩ができる前の初期病態からをう蝕とする」と定義しなおし、初期治療や進行抑制の重要性を強調しています。同時に、う蝕はプラーク中の特定の菌種が原因だとする考え方から、口腔常在菌の動態変化に影響されるとする「生態学的プラーク仮説」への転換を明確に提案しました。さらに、こうした考え方を前提に、最新の診断基準や診断技術、初期う蝕を治癒あるいは進行を抑制するための治療法、そして予防法についての詳細な情報提供もしています。
―― 診断、治療、予防等にどのように生かせるとお考えでしょうか?
う窩や痛みを生じさせないための初期う蝕への対応を中心に、診断基準を含めた診断法、予防法、治療法について、従来のものと最新のものとを比較検討し、最新最善の方法が容易に理解できるようになっています。なかでも、初期う蝕については新たな診断法が国際的に普及しつつあり、新たな診断法に基づく治療法が充実してきています。また、小児期のう蝕予防や初期う蝕への対応の重要性を強調しつつ、高齢社会における新たな状況への対策も述べられており、各年代の患者に応じた治療や対策を講じるうえで考慮すべき情報が豊富に提示されています。
―― 臨床歯科医師や研究者にとってのメリットとは?
これまで、初期う蝕の診断と治療は、歯科医師個人の主観的な判断により行われることが多かったのですが、国際的な基準や考え方を理解することで認識を新たにできると思います。たとえば、口腔は患者の全身の一部であるという考え方に基づき、患者の口腔衛生管理を通じて、患者の健康の維持・管理に貢献する歯科医療の提供が可能になるでしょう。一方、う蝕に関する基礎研究や臨床研究を行う上でも、とくにプラークの生態学をもとにした新たな口腔細菌学の展開、口腔環境改善を中心とした予防法や再石灰化治療法の開発などに資することができると期待できます。
―― 残された謎、解明すべき病態等はございますか?
う蝕の発生には多因子が関与しています。本総説においては個別因子の情報を十分に提示しているものの、互いの関連性についてはあまり情報がないのが現状です。たとえば、「全身状態の変化が口腔内にも及ぶと病原性の低かったプラークが生態学的にどのように変化するのか」といったことは、今後の解明課題といえます。また、高齢社会のう蝕として問題となる根面う蝕や修復物周囲の二次う蝕についても病態理解が不十分で、有効な予防法の開発が求められています。
臨床的には、患者の社会的な状況もう蝕に関連する重要な因子ととらえるべきで、単に生物学的なう蝕の理解だけでは対応が困難なことが多くなっています。つまり、社会的因子までを含めた診断基準の普及が望まれており、国際的にはそのような診断法が提案されています。日本でも普及しつつあるのですが、日本の医療保険制度に即し、かつ社会的因子をも考慮したガイドラインが必要と考えています。
―― う蝕領域に対しての思いをお伺いできますか?
日本におけるう蝕は急速に減少しているとされますが、実態としては、「う窩の形成された進行したう蝕」が減少しているにすぎません。プラークは口腔内に必ず存在するものであり、プラークの生態は一生を通じて大きく変化し、う蝕のリスクも大きく変動します。歯の表面ではプラークによる脱灰と、環境因子による再石灰化が常に繰り返されており、う蝕という疾患も動的な変化を含む疾患と考えるべきでしょう。このように解釈すると、う蝕は予防が可能であり、治癒可能な疾患、進行抑制可能な疾患であると考えることもできます。口腔管理を通じた患者の一生の健康管理に貢献するためには、内科医的な考え方が必須です。もちろん、う蝕病巣に対する介入、すなわち歯を削って修復する際の判断および材料の選択のためにも、う蝕という疾患の理解は必須だと考えます。
聞き手は、西村尚子(サイエンスライター)。
Nature Reviews Disease Primers 掲載論文
う蝕
Nature Reviews Disease Primers 3 Article number: 17030 (2017) doi:10.1038/nrdp.2017.30
Author Profile
田上 順次
歯科用接着材を用いた歯の治療法の高度化、開発については国際的にも最先端の研究を展開している。治療法は、歯の生物学的な理解とう蝕の病態理解に基づき、局所麻酔なしで無痛的、かつ一回の来院で自然な外観の歯に修復できるものが望ましいと考える。蝕予防は治療後の歯を長期的に機能させるためにも必要で、根面う蝕、二次う蝕の予防と進行抑制の手法開発にも注力している。様々な新素材の開発やガムによるう蝕予防法の確立のほか、エックス線による診断が難しい「歯の隣接面の初期う蝕の検知」が可能な光干渉画像診断法の歯科臨床への応用に向けた研究にも取り組んでいる。
1980年 | 東京医科歯科大学歯学部卒業 |
1984年 | 東京医科歯科大学大学院歯学研究科博士課程修了(歯学博士) 東京医科歯科大学 歯科保存学第一講座助手 |
1987年 | 米国ジョージア医科大学留学 |
1994年 | 奥羽大学歯学部 歯科保存学第一講座教授 |
1995年 | 東京医科歯科大学歯学部 歯科保存学第一講座教授 |
1998年 | 東京医科歯科大学歯学部 附属歯科技工士学校長 |
2000年 | 東京医科歯科大学大学院 医歯学総合研究科う蝕制御学分野教授 |
2004年 | 東京医科歯科大学歯学部学部長 |
2008年 | 東京医科歯科大学大学院 医歯学総合研究科研究科長 |
2014年 | 東京医科歯科大学理事・副学長(教育・学生・国際交流)現在に至る |