感染予防の技術
公衆衛生の専門家たちは、病気の蔓延を減らして、社会における抗生物質の使用を低減できることを望んでいる。
2020年の初頭に、シンプルな手洗いのデモンストレーションが、オンラインで急速に拡散した。この動画は、もともとインドの料理店主が作成したもので、その後、世界中の医療の専門家や朝食時間帯のテレビ番組の司会者たちが、これをまねた動画を作成した。この動画では清潔な使い捨て手袋をはめた両手の片方の手のひらに子供用の絵の具を一絞りして載せ、正しい手洗い手順を行う。すると最後には、両方の手袋の全面が、絵の具で完全に覆われるのである。
このメッセージや、これに類似したものが要因の1つとなって、2020年は感染予防意識が非常に高まった年となった。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックに際し、公衆衛生当局は、感染予防についての情報を一般の人々に伝えてきた。現在、さまざまな国において、新型コロナウイルスの感染者数を減少させるために、忠実な手洗い、消毒、社会的距離の確保(ソーシャル・ディスタンシング)が行われている。その様子を見てきた研究者や公衆衛生専門家は、別の理由からこの勢いを継続させたいと切望している。それは、抗菌薬に耐性を持つようになってきた感染症の広がりを抑えることだ。
まずは予防
抗菌薬耐性が人々にもたらす生命へのもたらす脅威は、COVID-19がもたらす脅威よりも桁違いに大きい。このままのやり方が続けば、2050年までに、耐性菌が原因で年間およそ1000万人の命が奪われることになるだろう1。抗菌薬は、病気の原因が細菌であろうとなかろうと、一般的に使われる治療薬である。2016年のある分析によると、米国の病院で処方された抗菌薬のうち、適切だったものは約70%にすぎなかったという2。さらに、抗菌薬の処方箋外使用に関して1970〜2009年に報告された論文のシステマティック・レビューでは、抗菌薬が非細菌性疾患の治療に頻繁に使用されていることが分かった3。また、当然のことながら、耐性菌は、処方箋外使用のレベルが高い地域社会で多かった。そして、耐性菌は、携帯電話などの表面を介して人から人へと広がっていく。
感染予防は、抗菌薬の効果的な使用を促進するために設計されたほとんど全てのプログラムの重要な側面であり、これは「抗菌薬適正使用」と呼ばれる領域である。世界保健機関(WHO)によれば、抗菌薬の有効性を維持するための世界的な取り組みには、正当なものであろうとなかろうと、抗菌薬で治療され得るあらゆる感染症を防ぐための戦略が含まれていなければならない。ウェイン州立大学医学系大学院(米国ミシガン州デトロイト)の感染性疾患専門医ティーナ・チョープラは、このアプローチを全面的に支持している。感染症は迅速な診断・治療を行うことが難しいため、病院だけでなく、地域社会において感染症を予防することで、最も大きなインパクトが得られるだろうとチョープラは言う。
パンデミックの教訓
アムステルダム自由大学医療センター(オランダ)の医学微生物学者クリスティーナ・ヴァンデンブルック・グラールスは、オランダにおける耐性菌の院内集団感染を監視するグループを率いている。COVID-19のパンデミックの間、このような感染症がオランダではほとんど見られなくなったと彼女と言う。「どうやら、人々はより多くの注意を払うようになりました」。院内感染が急激に減少したのは、病院職員がより念入りに手洗いを行っているためである可能性がある。そして多くの人が、他の国々も同様の状況だろうと考えている。
感染予防のメッセージは、病院外でも役に立ってきた。多くの国で、季節性インフルエンザをはじめとするCOVID-19以外の感染症の症例数が減少している。例えば、今年のオーストラリアでのインフルエンザによる死者数は、2019年よりも少ない。そしてスウェーデンは、COVID-19の感染拡大に関する管理が寛容であったために論議を呼んだが、例年よりも2か月近く早く、インフルエンザのシーズンが終了したと宣言した。
チョープラは、このように衛生意識の高い状況が続くことを熱望するとともに、パンデミックによって大きな弱点がいくつか明らかになったと指摘する。「今回のCOVID-19パンデミックによって、私たちの主要な保健インフラストラクチャーにおける多くの脆弱性が露呈しました」と、彼女は言う。「私たちは、老人介護施設、学校、保育園、透析センター、看護施設やリハビリ施設などの代替医療施設において、感染予防の不備に対処しました」。彼女は、抗菌薬適正使用においては、これらのサービスを担当する人々がより重要な役割を持つ必要があると考えている。
COVID-19の管理を助けるために、チョープラは、デトロイトの居住型介護施設での予防の取り組みを支援する目的で医学生を募集した。医学生たちは、居住者に対して、COVID-19の原因ウイルスである重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2(SARS-CoV-2)の定期的な検査を実施し、感染者をグループ分けして集団発生を抑え込む方法をスタッフに指導した。世界の他の地域では、地域社会レベルでの介入もCOVID-19の広がりを遅らせるために重要であった。
より良い行動
こうした対策が実行されなければ、人々は微生物の移し合いを続けることになる。銅のような、微生物を破壊する表面を使用する、あるいは化学物質によって厳しい消毒や紫外線照射を行うといったやり方で伝播のリスクを抑えることはできる。しかし、こうした対策を地域社会で実行するのは難しい場合がある。チョープラは、普遍的に有効な方法は、手指を清潔にすることと他人との距離を取ることの2つだけだと言う。「手指の清潔さは、病院に限らずあらゆる場所において基礎となるものです」。
こうした戦略は簡単なようにみえるかもしれないが、人々の行動変容が必要であり、言うは易く、行うは難しなのである。「人々に感染症予防に役立つ行動を取らせるための第一歩は、リスクを理解させることです」と、米国で医療格差を減少させるための最初の国家計画を考案した、コネティカット大学(ハートフォード)のガース・グラハムは述べる。例えば、2003年には、人々はいったんリスクを理解すると、SARSウイルスの広がりを防ぐために行動を変えて、より頻繁に手を洗い、物品の表面をきれいにするようになった。逆に、麻疹やポリオなど予防注射を躊躇する人が増えているのは、それらの感染の影響についての認識不足が原因である。
しかし、人々はリスクを理解した後に、効果的に行動を変える方法についての情報を必要とすると、グラハムは言う。さらに、その情報を提供するキャンペーンは信頼できるソースから得られるものであり、対象集団に合わせたものでなけれならない。「何を信じるかは人それぞれで、政府機関を信じる人もいれば、地元の医師や教会を信じる人もいます」とグラハムは話す。
例えば、2009年には、英国のある公衆衛生チームが「ハンズ・アップ・フォー・マックス!(Hands up for Max)」と呼ばれる手洗いキャンペーンを考案した。このチームは、手洗いの正しいやり方を示すポスターを小学校に配布し、生徒たちにはステッカーを配った。一方、米国疾病管理センター(CDC)が実施したキャンペーンは、親たちを対象としたものであり、ダウンロード可能なポスターやハッシュタグ「#KeepHandsClean」を付けたSNS投稿などを使って、家庭での手洗いが病気を予防するための簡単かつ効果的な方法だというメッセージを伝えた。「公衆衛生メッセージの発信は、地域のインフラストラクチャーと地域のコミュニティーについて年月をかけて理解することから始まります。最も効率的にメッセージを伝えることができるのは、対象集団と長年にわたって信頼を築き上げてきた地元の組織なのです」。
チョープラは、地域のコミュニティーでは今、感染症を食い止めるための永久的な変化が起ころうとしていると考えている。「私たちの働き方、人との会話の仕方、挨拶の仕方、これらが全て変わっていくでしょう」と彼女は言う。実際、米国立アレルギー・感染症研究所(メリーランド州ベセスダ)の所長アンソニー・ファウチはすでに、握手をしないと宣言している。
より広い視点
しかし、感染予防策に熱が入りすぎると、否定的な面が現れてくる可能性もある。CCEDRRN(Canadian COVID-19 Emergency Department Rapid Response Network)を率いているブリティッシュコロンビア大学(カナダ・バンクーバー)の救急医療医師コリーヌ・ホールは、カナダや他の一部の国々では、このパンデミックの期間に、COVID-19と関連していない死亡が増加していると指摘する。正確な理由は定かではないが、人々は家を出ることによってコロナウイルスに感染するかもしれないという不安から、救急医療サービスを利用しないことを選択しているかもしれないと、医師たちは示唆している。
世界の多くの地域では、行動変容だけでは著しい違いが生み出される可能性は低い。一部の低所得国では、感染率を抑えるために、インフラストラクチャーへの多額の投資が必要となるだろう。WHOは、世界の11億の人々が適切なトイレを使うことができず、下痢を引き起こす細菌の感染リスクを高めていると言う。抗菌剤は、基本的なインフラストラクチャーの欠陥に対処するための即効薬の1つと見ることができる。世界で薬剤耐性率が最も高い国の1つであるインドは、2014年に全国的なイニシアチブに着手し、トイレを建設して、手で糞便を集めて廃棄する人々に、そうした行動をやめさせることを目標としている。
感染予防は重要な挑戦であり、おそらく今、これまで以上に世界は感染予防について話す姿準備ができている。「少なくともこれから数年間は、感染制御がさらに多くの関心を集めることになると考えています」とヴァンデンブルック・グラールスは言う。SARS-CoV-2は、感染症が重要な死亡原因となるという認識を高める機会をもたらした。ワクチンや広く効果的な抗菌剤が普及している時代において、「これは、人々にある種の警鐘かもしれません。感染症は過去のものだと考えるべきではないのです」とヴァンデンブルック・グラールスは話す。
クリスティーナ・キャンベルは、カナダ・ビクトリアに拠点を置くフリーランスライター。
原文:Nature (2020-10-21) | doi: 10.1038/d41586-020-02885-2 | The art of infection prevention
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References
- O’Neill, J. Tackling Drug-Resistant Infections Globally: Final Report and Recommendations (Wellcome Trust/HM Government, 2016).
- Fleming-Dutra, K. E. et al. J. Am. Med. Assoc. 315, 1864–1873 (2016).
- Morgan, D. J. et al. Lancet Infect. Dis. 11, 692–701 (2011).