人工硝子体として長期埋め込み可能なゲル
酒井 崇匡
2017年3月号掲載
大量の水を含み弾力性に富んだハイドロゲルは生体軟組織と似ており、医療材料として注目されている。一方で、生体内で膨潤、白濁、炎症などを引き起こすといった問題も抱えており、広く実用化されているものはあまりない。このほど、酒井崇匡・東京大学大学院准教授らは、膨潤や白濁の問題をクリアし、液体からゲル化までの時間も制御できる、注入可能なハイドロゲルを開発。実際にこのハイドロゲルをウサギに導入し、長期の埋め込みが可能な人工硝子体としての安全性を確認した。
―― 生体に使えるゲルの研究開発に携わっておられますね。
酒井氏: はい、三次元の網目構造を持つ高分子が大量の水を抱え込んだハイドロゲルを対象に研究しています。ポリエチレングリコール(PEG)などのポリマーの網目構造に水を含ませたもので、生体の軟組織とよく似た組成を持っています。ゼリーのように柔らかいですが、容器に入れて逆さにしても流れてこない固体で、この点が流体とは大きく異なります。従来は数%の高分子を含むゲルが一般的でしたが、今回は0.5%の高分子と99.5%の水からなるものを作ることに成功しました。応用としては、水のある環境ならどこでも使えますが、私たちは生体材料としての応用を目指しています。ただし、生体内ではゲルは徐々に分解されていきますので、壊れることを見越した使い方をする必要があります。そのため、「作る」「使う」「壊す」という一連の流れを視野に入れて研究しています。
ゲルそのものは古くからあり、馴染みのある物質といえますが、生体材料として実用化されているのはソフトコンタクトレンズくらいです。しかも、ソフトコンタクトレンズが開発されたのは50年前です。生体材料の開発が難しい要因はいくつかあるのですが、私は特に2つの問題に注目しています。1つは、ゲル化に至る時間を制御できないこと。もう1つは、生体内においてゲルの体積を適切に制御できないことです。例えば、手術時に生体のどこかにゲルを導入したいとします。その際、液体からゲル化までに10時間もかかるようでは使えませんし、逆に瞬時にゲル化しても不都合なわけです。また、生体導入後に水を引き込んで膨潤すれば、周囲の組織や神経を傷害してしまいます。
―― 生体への毒性などはないのでしょうか?
酒井氏: PEGは、米国食品医薬品局(FDA)が安全性を確認し生体への利用を認可している化合物で、変異原性や毒性がないことが確認されています。ただし、PEG分子の末端を官能基で修飾すると、官能基の種類によって毒性や刺激性を持つもの、炎症の原因になるものなどがあります。私たちは、毒性が少なく炎症の原因にもなりにくい官能基を用いる、という工夫をしました。
―― 今回、人工硝子体への応用を考えたのはなぜですか?
酒井氏: 眼科医である筑波大学医学医療系講師の岡本史樹(おかもと・ふみき)先生にお声がけいただいたのが大きいと思います。硝子体は、眼の水晶体の後方にある、コラーゲンからなるゲル状の組織です。老化や糖尿病などによって硝子体が縮小したり、外傷によって網膜に裂孔が生じたりすると、網膜剥離が起きます。進行すると視野がゆがむ、欠けるといった症状がみられ、失明に至るケースも少なくありません。
現在のところ、硝子体の組織を取り除いた後にシリコーンオイルや特殊なガスなどを充填し、その圧力によって剥がれた網膜を接着する治療が行われていますが、かなりの苦痛と負担を強いられます。患者さんは圧着するまでの1週間を入院して24時間うつ伏せで過ごす必要がある上、しばらくは屈曲率が変化するので目が見えないのです。シリコーンオイルの場合は、オイルが乳化して小さい粒となり、眼圧を制御するために空いている孔に詰まって眼圧を上げてしまうといった問題もあります。注入したオイルやガスは約1カ月後に除去し、代わりに生理食塩水を充填すれば、視力は回復します。
もし、オイルやガスの代わりにハイドロゲルを注入できれば、処置は短時間で終わり、うつ伏せにしている必要もなく、すぐに日常生活に戻れます。網膜剥離というと高齢者の病気と思いがちですが、50代の働き盛りの発症も少なくなく、早急に社会復帰できればメリットは大きいといえます。こうした背景があり、岡本先生ご自身も人工硝子体用ゲルの開発を進めておられたのですが、思うような成果を得られず、私たちが開発していたゲル(TetraPEGハイドロゲル)に興味を持ってくださり1、共同研究することになったのです。
―― TetraPEGハイドロゲルとは?
酒井氏: 「十字のように4方向に分岐し、先端に官能基を持つPEG(TetraPEG)」2種類からなる、極めて均一な網目の分子構造を持つハイドロゲルのことです。2種類が溶けた水溶液を混ぜると互いの官能基で結合し、三次元の規則正しい網目構造を作ります。網目のサイズや密度、結合率などを正確に制御できるので、実験によりゲル化までの時間や力学特性、透明度、分解性などを容易に調べられるのが特長です。
今回は、極めて低濃度でのゲル化、ゲル化までの時間短縮、生体への親和性、安全性などを考慮し、反応基としてCH2CH2-SHを持つTetraPEG(TetraPEG-SH)と、NHCOCH2CH2-MAを持つTetraPEG(TetraPEG-MA)を設計しました(図2)。特筆すべき点は、ハイドロゲルの作り方です。これら2つのTetra-PEGから直接ゲルを作るのではなく、第一段階としてTetraPEG-SHとTetraPEG-MAを極端に異なる割合で結合させた水溶性のゲル種を2種類作っておき、第二段階として両者と水を混ぜて作製するのです(図3)。できあがったゲルは「Oligo-TetraPEGハイドロゲル」と呼んでいます。
一般には、PEG濃度を1%以下にするとゲル化時間が大幅に遅延してしまうのですが(図4)、私たちのOligo-TetraPEGハイドロゲルでは0.5%という超低濃度でも、わずか10分程度でゲル化させられます。これほどの超低濃度なら、膨潤圧を周辺組織に影響しないレベル(1kPa以下)に抑えることができ、眼内は時間がたっても白濁しません。これらの基礎的な検討はほとんど全て、当時院生だった林 加織(はやしかおり)さんが行ってくれました。また、この方法により「液体からゲル化までの時間」を自在に制御できるようになったことも大きなメリットです。第一段階のゲル種は水溶性なので、それぞれを注射器で生体に注入することができ、まさに「インジェクタブルゲル」といえます。
―― そして、人工硝子体としての安全性も検証されたのですね。
酒井氏: 目のサイズが比較的大きいことからウサギを用い、まず6匹を対象に安全性の検証を行いました。麻酔下で硝子体を全て除去した上でOligo-TetraPEGゲルを導入し、410日後まで観察したのです。眼圧は正常でゲルが白濁することもなく、炎症もほとんど起きませんでした。比較のために従来のPEGを用いた実験もしましたが、こちらは眼圧が上がり、白濁や炎症が起きました(図5)。
次に、網膜を人工的に剥離させたウサギ3匹を用いて同様の実験を行いました。導入したOligo-TetraPEGゲルにより直ちに網膜が整復されるために、術直後から視力が維持され、その視力は1年以上維持されていました。ウサギにはヒトのような視力検査ができませんので、視力は眼の電位をシグナルにして計測判定しました(図6)。ゲル導入の処置後は約30分で麻酔から覚め、すぐに動き回ったり飛び跳ねたりしましたが、失明したり副作用が認められた個体はいませんでした。
ヒトでの安全性や有効性については、さらに長期間にわたる検証が必要で、臨床試験までの準備や試験手続きにも時間がかかりますので、実用化には10年くらいかかるかもしれません。私自身が網膜剥離の高リスク群に入る頃には使えるようにしたいですね。
―― 網膜剥離以外にも使い道がありそうですね?
酒井氏: はい、そのとおりです。2液を混合してから導入する方法の他に、スプレーで散布する手法を開発しており、止血、組織の接着、手術後の癒着防止、細胞の足場などへの応用が考えられると思います。
―― 新創刊のNature Biomedical Engineeringに投稿された経緯とは?
酒井氏: 実は、初めはNature に投稿し、2度のリサブミッション、2度のリバイズを経たのですが、最後の最後でリジェクトとなりました。その過程でNature Biomedical Engineering の創刊を知り、担当編集者からのアドバイスもあり、こちらに再投稿することにしたのです。ボスでもある鄭雄一(てい・ゆういち)教授には、「リジェクトされても気にしないように。リサブミッションすればよいのだ」と常々言われておりますので、編集者や査読者からの指示を粛々とこなしたという感じです。日本人研究者は粘り強く再投稿することが少ないと聞いていますので、私は粘り強さの重要性について積極的に若手に紹介するようにしています。これまで、バイオマテリアル領域の成果は主にNature Materials に掲載されていましたが、Nature Biomedical Engineering はフラッグシップ的存在になると思います。
論文掲載後は海外メディアでも取り上げられ、網膜剥離の患者さんから直接メールをいただいたりもしました。また、論文掲載サイトでは海外でどのようなメディアが取り上げたのかを確認できるようになっているので、結果が気になってついつい覗いてしまいます。これまでは私たちのゲルの重要性がなかなか伝わらない状況にあったのですが、今回の成果で理解が進むことを期待しています。
論文が受理されるまでにいろいろな苦労がありましたが、自分の研究に1本の筋が通ったように思います。私たちを見つけてくださった岡本先生には、本当に感謝しています。今後は、東大医学部の先生方ともさまざまな領域で共同研究することや、これまでのゲル研究による知見を教科書にまとめることなどを考えています。
―― ありがとうございました。
聞き手は、西村尚子(サイエンスライター)。
引用文献
- Sakai T. et al. Macromolecules, 41, 5379-5384 (2008).
Nature Biomedical Engineering 掲載論文
Article: 高分子含量が極度に低く短時間で作製される人工硝子体としてのハイドロゲル
Fast-forming hydrogel with ultralow polymeric content as an artificial vitreous body
Nature Biomedical Engineering 1 : 0044 doi:10.1038/s41551-017-0044 | Published online 09 March 2017
Author Profile
酒井 崇匡(さかい たかまさ)
東京大学大学院工学系研究科バイオエンジニアリング専攻 准教授
東京大学卓越研究員
JSTさきがけ研究員
2007年 | 東京大学工学系研究科マテリアル工学専攻修了 博士(工学) |
2007年 | 東京大学大学院工学系研究科 特任助教 |
2011年 | 東京大学大学院工学系研究科 助教 |
2016年 | 東京大学大学院工学系研究科 准教授(現職) |
専門は高分子ゲル。極めて高い均一性を持つ高分子ゲルであるTetraハイドロゲルを開発し、高分子ゲルの物性と構造の相関を明らかにすることをテーマに研究を進めてきた。最近は、生体内においてハイドロゲルを「作る」「使う」「壊す」制御の重要性を提案し、これまでに得た基礎的知見を元に、新たなバイオマテリアルの創製を行っている。
林 加織(はやし かおり)
花王株式会社 基盤研究セクター マテリアルサイエンス研究所 研究員
2016年 | 東京大学工学系研究科バイオエンジニアリング専攻修了 修士 |
2017年 | 花王株式会社 基盤研究セクター マテリアルサイエンス研究所 研究員(現職) |