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PhD大量生産時代

原文:Nature号)|doi:10.1038/472276a|Education: The PhD factory

シンガポール:全方向での発展

シンガポールの方が、状況はもっと明るい。この数年間に大学制度と科学・技術インフラに多額の投資がなされ、国立大学2校の新設を含めて大きな発展が見られた。その結果、国内外から学生が集まり、博士課程に進学したシンガポール国民の数は、全分野を合わせて、この5年で60%増えて789人となった。同時に、中国、インド、イラン、トルコ、東欧やさらに遠方の国々からも大学院生を積極的に呼び込んだ。

「日本の労働市場における博士の将来については、全員が悲観論者です」

これまでシンガポールの大学制度は発展途上にあったため、ほとんどの博士号取得者は、大学以外で就職していたが、大学が拡大を続けることで、より多くの就業機会が生み出される可能性がある。「卒業生全員が、大学教育で身につけたことで生計を立てているわけではありません。例えば教師や銀行員など全く異なった仕事に就く者もいますが、みんな良い仕事を得ています」。こう話すのは、シンガポール国立大学で生物多様性を研究する Peter Ng だ。博士号が高給に結びつくこともある、と Ng は話す。良い成績で学士号を得た学生が就職して得られる月収が3000シンガポールドル(約21万円)であるのに対し、博士号取得者の月給は、少なくとも4000シンガポールドル(約28万円)となっている。

「博士号は、1つの研究分野に精通していることの証しにとどまらず、頭脳の訓練を受けたことの証しでもあると私は思います。もし大学で習得したことをその後の人生で実践できれば素晴らしいことですし、たとえ別の道に進んだとしても、自らの技能を新たな分野に持ち込んで、付加価値を生み出せると思います」と Ng は話している。

米国:需給バランスの調整

博士号に関するトレンドを研究するジョージア州立大学(アトランタ)の経済学者 Paula Stephan は、いまだに博士が不足していると語る米国の政治家にあきれ果てている。米国は、科学分野の博士号授与数が中国に次いで多く、2009年には生命科学と物理科学の博士号授与数の合計が1万9733件(推定)に達し、その数はなお増加傾向にある。しかし Stephan は、「議会が、博士の雇用を生み出すための予算を増額しない限り」、もはやこのトレンドを認めるべきではないと話す。

図3:米国:大量に生まれる博士号取得者とその前途
図3:米国:大量に生まれる博士号取得者とその前途
米国の大学で博士号を取得した卒業生の年間総数の伸びが最も顕著なのが、医学・生命科学の分野である(左図)。科学・工学分野の博士課程を修了するために7.2年(中央値)を要し(中央の図)、卒業後1~3年で大学での常勤職に就いた者の割合は減少傾向にある(右図)。 | 拡大する

SOURCE: SCIENCE AND ECONOMIC INDICATORS 2010

理系博士号を持ち、大学で科学分野の終身雇用職を得る人の数が、じりじりと減ってきており、産業界もこの減少分を吸収しきれていないからだ。問題が最も深刻なのが生命科学の分野で、博士号授与数の伸びは最大なのに、製薬産業やバイオテクノロジー産業の規模が近年大幅に縮小されてしまった。1973年には、米国の生物科学の博士号取得者の55%が、博士課程修了後6年以内にテニュア(終身)の職に就き、終身在職権のない職に就いていたのはわずか2%だった。ところが2006年になると、博士号取得から6年以内にテニュア職に就いた人は全体の15%に減り、終身在職権のない職に就いた人が18%となった(図3「大量に生まれる博士号取得者とその前途」参照)。博士号のいらない仕事をする博士号取得者の数が増えていることが、統計から示唆されている。「これは資源の無駄遣いです。学生の教育に多額の費用をかけているのに、卒業後、これに見合った仕事が得られないのですから」と Stephan は指摘する。

このような求人需要の低迷から理系博士課程への進学を断念した学生もいる、と話すのはラトガース大学(ニュージャージー州ニューブランズウィック)の Hal Salzman 教授(公共政策)だ。それでも米国での博士号の授与は急増を続けており、外国人学生の流入がこれに拍車をかけている。2010年に科学・工学分野の博士課程の学生とポスドク3万人を対象に行われた調査においても、大学での研究職が希望就職先として一番多かった、とジョージア工科大学(アトランタ)で戦略的経営を研究する Henry Sauermann は言う。実際、この目標に絞って学生を教育している博士課程は多い。なお、2007年に卒業した科学・工学分野の博士号取得者の半数は、取得に7年以上を要しており、博士課程進学者の3分の1以上が中退している。

現在、一部の大学の博士課程では、大学研究職以外の就職も可能となるような教育の実験を試みている(Nature 2011年4月21日号280ページ参照)。ブロード研究所(マサチューセッツ州ケンブリッジ)の細胞生物学者 Anne Carpenter は、現役の博士号取得者の雇用を生み出すとともに、博士課程進学者を減らすよう努力している。Carpenter が自らの研究室を開設した4年前には、臨時雇いのポスドクと大学院生という通常の組み合わせではなく、経験豊かなスタッフ科学者を永久契約で雇用した。Carpenter は、こう説明する。「ピラミッド式の科学研究自体にさほどの合理性を見いだせませんでした。100人もの大学院生やポスドクを粗製濫造することは、私の良心が許しませんでした」。

しかし Carpenter は、研究スタッフの高額な人件費について、助成金審査委員会を説得するのに苦労し続けている。彼女は「科学者を8万ドル(約640万円)で雇っているわれわれは、4万ドル(約320万円)でポスドクを雇っている研究室といかに競争したらよいのでしょうか」と問いかける。彼女は理想を掲げ続けるつもりだが、将来的には、ポスドクの採用も柔軟に考えていくと語っている。

ドイツ:「進歩的」博士号

ドイツは、年間の博士号取得者数がヨーロッパで最も多く、2005年には科学分野の博士号取得者が約7000人となった。また、過去20年間にわたる博士教育課程の大改革により、供給過剰問題の解決も順調に進んでいる。

ただ、ドイツの大学でもほかのヨーロッパ諸国と同様に、研究職の募集数は減少ないしは横ばい状態にある。その結果、トップクラスの学生が追い求める大学の研究職だけでは就職先が足りず、高度な訓練を受けた人材として、大学は博士号取得者を幅広い分野に売り込んでいる。

「ドイツでは教授に就任するまでの道のりが長く、また大学教員の収入は比較的少ないため、博士号を取得して大学を離れることが賢明な選択肢の1つになっているのです」

これまでドイツでは、指導教官が博士課程の学生を非公式に集めて、自らの研究方針に合わせて教育するのが通例で、大学や研究機関からほとんど監督を受けてこなかった。しかし今では、大学が、学生の招致や養成に正式に関わるようになっており、多くの学生が、実験室での研究以外に、プレゼンテーション、報告書の作成やそのほかのスキルを教える講義を受けている。

理系博士課程修了者の中で最終的に大学での常勤職に就く者は6%に満たず、産業界で研究職に就く者が大部分だ、とドイツ学術審議会(ケルン)で博士教育を研究する Thorsten Wilhelmy は説明する。「ドイツでは教授に就任するまでの道のりが長く、また大学教員の収入は比較的少ないため、博士号を取得して大学を離れることが賢明な選択肢の1つになっているのです」。

ブリュッセルに本部を置く欧州大学協会で、博士教育の支援・開発プログラムを主導する Thomas Jørgensen は、ドイツの大学が改革を進め過ぎて、学生が講義に費やす時間が長くなり、博士論文のための研究や批判的に物事を考える能力習得のための時間が不足することを懸念している。中国、インドやその他経済力をつけている国々で博士号授与数が増えている今、ここ20年間、ドイツでの博士号授与数が伸び悩んでいることについても、Jørgensen は心配している。

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