Comment

鳥インフルエンザウイルスの改変は懸念の火種となる

原文:Nature オンライン掲載)|doi:10.1038/482153a|Policy: Adaptations of avian flu virus are a cause for concern

米国のバイオセキュリティー国家科学諮問委員会(NSABB)のメンバーたちが、H5N1インフルエンザの実験研究に関する情報交換について同委員会が出した勧告を解説する。

我々は現在、生命科学の革新的時代の真っ只中にいる。技術力は劇的に拡大し、特定の微生物の複雑な生物学的特性についての理解が大きく進み、微生物ゲノムを操作する能力も格段に高まった。これに伴い、かつてないほど高レベルの感染症対策が可能となり、社会に大きな利益がもたらされている。しかし同時に、それと同じ生命科学が故意に悪用され、その結果、壊滅的な被害がもたらされるリスクも大きくなっている。特に懸念される生命科学研究を記述もしくは定義しようとする取り組みでは、そうした研究や新しい技術から得られる知識や成果が、国家あるいは世界全体のセキュリティーに影響を及ぼすほど広範囲で直接悪用される可能性を重要視している。病原微生物による害を大幅に強めるような研究は、特に懸念の対象となってきた1–3。現在まで、こうした取り組みは、特異度の欠如や、「善悪両用が心配される研究」の具体例が乏しいことがネックとなっていた3。ここで言う善悪両用の研究とは、よい目的と悪い目的のいずれにも使えるという意味である。我々は現在、現実世界で心配な一例に直面している。

高病原性鳥インフルエンザA/H5N1のヒトへの感染は、1997年にアジアで見つかって以来、公衆衛生上の重大な懸念の1つとなってきた。このウイルスのヒトへの感染はまれであるが、感染した場合には重症となり、致死率は59%にもなる4。これまでのところ、インフルエンザA/H5N1ウイルスのヒトからヒトへの伝播はごくまれであり、ヒトでのパンデミック(世界的大流行)はまだ起こっていない。もしインフルエンザA/H5N1ウイルスがヒトの間での伝播能力を獲得し、なおかつ現在の高い病原性を保持していた場合、著しい流行に直面するであろう。歴史的にみると、致死率の高い地域的流行もしくはパンデミックが記録されているのは、人々が免疫を全く持っていない新しい病原体と接触したときだった。例えば、中世のペスト菌(Yersinia pestis)や、ヨーロッパ人がアメリカ大陸へ到来したときの天然痘や麻疹(はしか)の持ち込みなどだ。

病原性H5N1鳥インフルエンザが原因で、何億羽という鳥が殺処分された。
病原性H5N1鳥インフルエンザが原因で、何億羽という鳥が殺処分された。ヒトに伝播するタイプのウイルスは、はるかに悪影響を及ぼす可能性がある。

M. CIZEK/AFP/GETTY

最近、いくつかの研究チームがインフルエンザA/H5N1ウイルスの改変にある程度成功し、ウイルスは哺乳類の間を高効率で伝播できるようになった。しかもそのうち1つの例では、高い病原性が維持されていた。この情報は非常に重要である。というのも、これらの実験が行われるまで、鳥インフルエンザA/H5N1が哺乳類の間での伝播能力を獲得できるかどうかは不確かだったからである。今回のこの情報がわかったことで、自然界にそうしたウイルスが自然発生した場合に備えて、世界規模で対策を講じることができる。しかし同時に、これらの科学的成果は、世界のバイオセキュリティー、バイオセーフティー、および公衆衛生に関する重大な懸念ももたらす。この情報が、悪意のある人間や組織もしくは国家の手に渡れば、1918年の「スペイン風邪」の死者数をしのぐようなパンデミックを引き起こすことのできる遺伝子改変インフルエンザウイルスを作り出せることになりはしないだろうか。この研究を行った複数の研究チームは、鳥インフルエンザA/H5N1ウイルスがヒトへの適応時にたどりそうな進化経路を見つけるという善用目的で、そうしたウイルスを実際に作り出した。そうした知識は、迫り来る自然脅威への公衆衛生上の対応策を改善させるのに役立つと思われる。また、論文著者たちや学術誌ScienceおよびNatureの選定した論文査読者たち、学術誌そのもの、さらには米国政府の名誉のために言っておくと、これらの実験に善悪両用の懸念が潜んでいることは、論文発表の前から認識されていた。

米国政府はNSABB(go.nature.com/oeryit)に対して、改変した鳥インフルエンザA/H5N1ウイルスに関する2編の未発表論文原稿が善悪両用の点でどんな意味をもつのかを評価すること、研究結果の情報交換のリスクと利点を考察すること、および、この研究の責任ある情報交換に関する所見と勧告を出すことを要請した。我々の審議では、まず、今回の情報が悪用された結果生じる、一般市民に害を及ぼすリスクおよびその影響について評価した。

社会的被害のリスク評価はかなりの難題である。なぜなら、危害を加えようとする人間の意図や能力を考察するだけでなく、社会の脆弱性や、計画的事件と偶発的事件の両方に対する公衆衛生上の備えの状態についても考察する必要があるからだ。評価の結果、我々は社会的被害のリスクの程度が著しく高くなる可能性があることを見いだした。我々は、米国政府や科学専門誌、より広範な研究界に対する勧告の策定にあたり、この研究の詳細を公開することの利益と大きなリスクとをてんびんにかけた。そしてNSABBは、これらの研究結果の完全な公表によって害が及ぶ可能性が大きいこと、また、その害のほうが、詳細を公表することで得られる利益よりも大きいことを見いだしたため、我々は、誰でもアクセスできるオープンな場で、この研究のすべての情報を交換すべきではないと勧告した。NSABBは全員一致で、審査した2本の論文原稿に関する情報交換は、実験の詳細と結果に関して大幅に制限すべきだという意見に至った。

これは、生命科学分野の研究に対するものとして異例の勧告であるため、我々の分析は、論文を公表した場合に考えられる利益と、そうした慣例的な公表から起こりうる被害の両面を慎重に考察して行われた。我々が懸念するのは、これらの実験内容を詳細に発表することが、哺乳類の間で感染する類似の改変インフルエンザA/H5N1ウイルスを悪用目的に開発する一部の人間や組織、国家にも情報を与えることになるかもしれない、ということである。我々は、研究者として、また社会の一員として、「害を及ぼさず」、慎重に、ある程度の謙虚さも持って行動すべき基本的責任があると考えられる。なぜなら、生命科学の力は計り知れず、とんでもない結果をもたらすような新規の特性をもつ微生物を作り出してしまえるだろうと思われるからである。また同時に、新型ウイルス出現というこの潜在的脅威への警戒を人類に呼びかけること、脅威への厚い備え、そして将来の感染症対策に向けた新規戦略開発を可能にするこの研究の側面を探求することは、明らかに公益があると認めている。手法や詳細なしに、基本的な結果だけの情報交換をするよう勧告することで、社会の利益は最大化し、リスクは最小化できると我々は考える。科学者は、他の科学者が実験を再現できるよう方法論を注意深く定義した科学論文を作成することに誇りをもっているものだが、今回の事例については、方法論を広く普及させることが責任ある行動だとは考えられない。

生命科学は岐路に立っている。我々が選ぶ道とその判断に至るプロセスは、社会が一体となって決めるべきであり、政府や科学界、もしくは社会の一部集団に委ねられるべきではない。物理学では1940年代に核兵器研究で同様の状況に直面しており、他の科学分野でもそうなることは避けられない。

我々は、これら特定の研究結果について情報交換を制限すべきだと勧告するのに伴って、今後の方針のコンセンサスを作るという目的から、インフルエンザA/H5N1ウイルスに関する善悪両用の研究の指針に関する迅速かつ広範な国際的議論の必要性について議論した。これが、精力的かつきめ細かな考察を必要とする手間のかかる試みであることは疑いない。現時点で耳を傾けるべき意見をもつ重要な利害関係者は多数いる。このようなことは、迅速、かつさまざまな社会的立場の人々が本格的に参加して行われなければならない。

ユーラシアは、一部地域で絶えず動物の病気が引き起こされている場所であるが、この大陸で高病原性鳥インフルエンザA/H5N1ウイルスが持続的に循環していることが、人類に対する継続的な脅威の1つになっていることを、我々は十分認識している。哺乳類に伝播しうる高病原性インフルエンザA/H5N1ウイルスのパンデミック、もしくは故意のばらまきは、想像を絶する壊滅的被害をもたらすとみられるが、現在の世界はそれに対する備えが十分ではない。善悪両用の可能性を最小限に抑えるためだけでなく、必要性の高い研究を促進させるための最上の方法を確立することが、緊急に求められている。

このプロセスの促進および積極的な取り組みのため、我々は、インフルエンザA/H5N1ウイルスのように危険となりうる微生物の病原性や感染力を大幅に増強させた実験の結果を広く情報交換することに関して、研究界が自ら率先して一時停止措置を取る可能性についても議論した。この一時停止措置は、学問の自由と、人類の幸福を潜在的な危険から守ることとの釣り合いがとれるようなコンセンサスにたどり着くまで続くことになる。適切な努力を払い、今後の道筋に関するコンセンサスが迅速に達成できれば、こうした一時停止措置はほとんど科学の進歩に悪影響を及ぼすことなく、また、リスクの低減に大きな効果が期待できる。

今回の状況は、1970年代の組み換えDNA技術の状況と多くの共通点がある5–7。1975年に米国カリフォルニア州で開催されたアシロマ会議は、組み換えDNA技術によるリスクの確認、評価、軽減について議論した重要な歴史的会議だった。この事例では、研究界がこの種の研究を安全かつ責任をもって執り行うための指針を策定できるまで、組み換えDNA研究について自発的な一時停止を課した。今回の事例は、早急な対処を必要とする公衆衛生および感染症研究を議論するための「新・アシロマ会議」の到来だと、我々は確信している。

「H5N1インフルエンザ特集」記事一覧へ戻る

プライバシーマーク制度