幹細胞の臨床応用に向けた急速な動き
原文:Nature 494, 413(号)|doi:10.1038/494413a|Stem cells cruise to clinic
日本で行われる予定の人工多能性幹細胞(iPS細胞)の臨床試験は、安全性の実証を目標としている。
人工多能性幹細胞(iPS細胞)の発見から7年。iPS細胞の基礎研究は大きく様変わりし、この細胞株を樹立した山中伸弥(やまなか・しんや)はノーベル賞を受賞した。そして日本では、この細胞の可能性が初めて試されようとしている。ヒトの細胞を胚のような状態に再プログラム化することで体内のどの種類の細胞にも分化できるiPS細胞を、加齢性の眼疾患に苦しむ患者に移植する臨床試験が行われる予定なのだ。
理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター(神戸)の高橋政代(たかはし・まさよ)は、来月厚生労働省に研究の申請を行う予定であり、早ければ9月にも臨床試験に参加する患者の募集を行うとのことだ。世界中の幹細胞研究者たちの望みは、臨床試験が進むにつれて幹細胞を使用した医療をめぐる安全性の懸念が弱まることである。また 日本政府は、iPS細胞の研究を臨床段階まで迅速化させようと、こうした研究への資金支援を行っている(Nature 493, 465; 2013を参照)。
メルボルン大学の幹細胞専門家である Martin Pera は、「安全性と有効性が非常に優れているという前臨床のエビデンスが検証されるということで、この分野全体が理化学研究所のグループと日本の規制当局に注目しています」と述べる。
高橋は10年以上にわたり、疾患に侵された組織を再建する目的でiPS細胞の可能性を調べており、今回は重度の加齢性黄斑変性症患者6人ほどを対象にして治療を行いたいとしている。加齢性黄斑変性症は失明原因として一般的な疾患で、50歳以上の人口の1%が発病する。高橋による臨床試験の治療の対象となる疾患は、網膜に血管が生じることによって、光を受容する網膜を支える網膜色素上皮と呼ばれる組織が傷害されて発症するタイプのものだ。 薬剤で新生血管の成長を抑えることは可能だが、定期的に眼球に注射を行わなければならない。
今回の研究で高橋は、こしょうの実程度の皮膚を患者の上腕から採取し、細胞をiPS細胞に再プログラム化させるタンパク質を加える。そして別の因子を加えることで、iPS細胞を網膜細胞に転換させる。そうしてできた小さなシート状の細胞を傷ついた網膜部分の下に移植することで、うまくいけば細胞が成長して、色素上皮を修復する。
移植により疾患の進行を遅らせたり停止させたりする効果が得られることが期待される。ただし、今回の試験の主な目標は、細胞の安全性を確保することである。再プログラム化された細胞によってマウスで見られたような免疫応答を引き起こされる可能性(T. Zhao et al. Nature 474, 212–215; 2011)が懸念されているからだ。しかし、最近発表された研究では、iPS細胞によって免疫応答は引き起こされなかったという結果が示され、この懸念は和らいだ(R. Araki et al. Nature 494, 100–104; 2013、Nature 493, 145; 2013)。「免疫の適合性については予測の範囲内と思われるので、この点に関してはあまり心配していません」と、ハーバード大学医学大学院(米国ボストン)の幹細胞専門家である George Daley は述べる。
より懸念されるのは、再プログラム化された細胞の増殖をコントロールできなくなることで、健常な組織ではなく腫瘍が形成されることだ。だが、高橋がカンファレンスで発表した前臨床のデータを受けて、Pera と Daley の抱えていた懸念は薄れた。高橋は、iPS細胞を移植してもマウスで腫瘍が形成されることはなく、非ヒト霊長類では安全性が確保されることを示した(現在、投稿中)。
Pera は、黄斑変性症の治療法に必要な幹細胞の量はわずかであり、腫瘍形成の可能性が低下すると付け加えた。さらに、もし腫瘍が形成されたとしても、眼は他の臓器に比べ外部から観察しやすい器官であるため、腫瘍除去も比較的簡単に行える。
一方 Daley は、たとえ安全性を確保したとしても、治療自体に効果が見込めないかもしれないと懸念する。例えば移植の不都合が生じたり、患者本人の組織に組み込まれなかったりする可能性があるのだ。「細胞がどのように組み込まれるかを解明するには、さらに何年もかかることでしょう」と Daley は述べる。Pera は、細胞のアイデンティティが不安定であるため、規定の時間を越えると、網膜色素上皮として機能しなくなる可能性という点も危惧している。
「幹細胞治療の分野全体が、理化学研究所のグループと日本の規制当局に注目しています」。
バイオテクノロジー会社 Advanced Cell Technology(ACT、米国カリフォルニア州サンタモニカ)でチーフ・サイエンティフィック・オフィサーを務める Robert Lanza によれば、高橋らが実施予定のiPS細胞研究は、時期尚早かもしれないという。「長期的で広範囲な前臨床試験の実施に先立ってそのような試験を行うことを、規制当局が許可するとは考えられません」と述べている。ACTは、他の疾患に対してiPS細胞を使用する臨床試験を早急に開始しようとしているが、高橋の臨床試験ほど大胆なものではない。同社はiPS細胞と胚性幹細胞から採取した血小板を健康な患者に注射し、通常の血小板のような働きをするかを観察する。この研究は、血液凝固疾患の治療の道を切り開くものだ。血小板には核が無いため腫瘍を形成する危険性が無いと、Lanza は説明する。Lanza は、米国食品医薬品庁との会談を今月末に予定しており、今年中にも臨床試験実施の承認を受けたいとしている。
Lanza は、我々のアプローチと比べ、核を含むiPS細胞の臨床試験は「はるかに難しい挑戦」だという。しかし、高橋のチームは準備に入っている、とPeraは反論する。Peraの言葉を借りれば、高橋のチームは「この分野におけるパイオニア」であり、「研究を行う上で良い位置にいます」。
高橋が行っている「臨床研究」は、紛らわしい日本のシステムの中でも臨床試験ほど規制が厳しくなく、それ自体では臨床応用の承認にはつながらない。しかし、もしデータが肯定的であれば出資者にとっては魅力的であり、実際に患者を治療する目的でiPS細胞を使用する際に必要となる正式な臨床試験の承認を得る上で役立つかもしれない。
この研究計画は、和光市を拠点とした自然科学総合研究所である理化学研究所と外科治療を行う神戸の先端医療振興財団先端医療センター両方の倫理審査委員会による承認を受けている。今後、医師、弁護士、当局者、科学者、3人の幹細胞専門家を含む18人の専門家から構成されるヒト幹細胞臨床研究に関する審査委員会が計画内容を審査し、承認するか否かを決定する。予定通り物事が進み、高橋の計画が2013年9月までに承認されれば、その後8か月かけて移植に必要な細胞シートが作製される。
iPS細胞治療の技術は日本発であるため、政府はその活用に熱意を示している。そのため、今後iPS細胞治療を臨床段階へ持ち込むのは容易かもしれない。6月末までに国会に提出される予定の薬事法改正案には、第Ⅱ相または第Ⅲ相臨床試験において有効であると思われる治療法の迅速化が含まれている。しかし、iPS細胞治療の今後および黄斑変性症患者の前途の一端を担うのは、高橋や先駆けとして研究に参加する患者たちだ。