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なぜ、NSABBは論文の一部削除を勧告したのか

原文:Nature 482, 156-157 (号)|doi:10.1038/482156a|Q&A: Reasons for proposed redaction of flu paper

H5N1インフルエンザウイルスを哺乳類の間で感染できるよう適応させた研究に関する2本の論文に対し、米国のバイオセキュリティーに関する国家科学諮問委員会(NSABB)が、手順などいくつかの詳細な情報を差し控えて公表すべきだとする勧告を出した1。1つは、ウィスコンシン大学マディソン校(米国)および東京大学医科学研究所(東京都港区)に所属する河岡義裕(かわおかよしひろ)の研究チームの論文で、赤血球凝集素(HA)の型の1つであるH5と、過去にパンデミックを起こしたヒトH1N1ウイルス由来の遺伝子群とを組み合わせたウイルスを作製したところ、ウイルスが哺乳類であるフェレットの間で飛沫(ひまつ)感染するようになったことを示している2。もう1つは、エラスムス医療センター(オランダ・ロッテルダム)の Ron Fouchier の研究チームの論文で、高病原性鳥インフルエンザH5N1ウイルスを哺乳類に感染できるようにする適応実験の結果を報告している3Nature は、NSABBの厳しい勧告に際して方針を決定するため、NSABBに、河岡チームの論文に関して今回の結論に至った理由の説明を求めた。これに対し、NSABBの委員長代理である Paul S. Keim が同委員会の意見をまとめ、回答を寄せた。

河岡らの論文は、完全な鳥インフルエンザH5N1ウイルスが哺乳類に感染できることを報告したわけではありません。それにもかかわらずNSABBは、河岡、Fouchier、双方のチームの論文に対して、一部削除した形での発表を勧告しました。なぜでしょうか?

両チームの論文は異なっていますが、NSABBはそれぞれの検討に十分な時間を費やしました。河岡らの論文に関する懸念は、哺乳類に感染できるH5N1再集合体ウイルス(異なるウイルス株由来の遺伝子からなるウイルス)を作り出すための手法が記されていることです。河岡らは、H5という型の赤血球凝集素(略称;H5 HA)と、2009年にパンデミックを起こしたH1N1インフルエンザウイルス(略称:A(H1N1)pdm09)のそのほかの遺伝子とを組み合わせ、フェレット間で感染できる新たなウイルスを作り出せることを示したのです。

さらに懸念すべきなのは、もとになったH1N1株の感染力の高さと、ブタ体内でインフルエンザウイルスの遺伝子の組み合わせが絶えず変わることです。2011年にはヒトでH3N2の新しい再集合体ウイルス株が見つかり、H1N1をもとにした遺伝子再集合にH5 HAを利用することに対して、さらに懸念が高まりました。

我々の見解では、どちらの論文の詳細が公表されても、第三者がこれらの実験を再現できるようになり、ヒトの間で飛沫感染する高病原性の鳥インフルエンザウイルスを作製できる可能性がいちだんと高まると考えています。

時が経てばあるいは、これらのデータを公開しても心配はないと判断されるかもしれません。しかし、今、公開を決定してしまえば、もう後戻りはできません。一方、詳細なデータの公表を遅らせるならば、いずれ、再検討することは容易にできるのです。

NSABBの声明1は、高病原性のリスクに重点が置かれています。河岡らのH5 HA/H1N1ウイルスは高病原性ではないのに、公衆衛生上、リスクがあると考えるのはなぜですか?

確かに、今回作製されたウイルスの病原性は、A(H1N1)pdm09ほど高くないと報告されています2。しかし、論文に記載されている手法が、H5 HAを持つ別のウイルスの作製に使われて、それがもっと高い病原性を持つかもしれません。

人類には、H5 HAを持つインフルエンザウイルスの感染に対する免疫を獲得した経験がこれまでいっさいないため、2009年のA(H1N1)pdm09の場合よりもずっと広範囲でパンデミックを招く可能性があります。2009年の流行の際には、一部の人々が1957年以前にほかのH1N1ウイルスにさらされていたため、免疫がありました。

もちろん、河岡らが行った研究2は、重要な恩恵をもたらすでしょう。しかし、一線を越えるものであり、実験の詳細情報を広く発信することに伴うリスクが利益を上回るときが、いずれ訪れるのではないかという疑問が生まれます。

いったん哺乳類の間で呼吸器感染が確立すれば、おそらくウイルスは呼吸器感染の効率を高めるように自身を適応させていくでしょう。もしそうしたウイルスが悪用されたり、研究室から流出したりすれば、予測できない経過をたどって進化すると思われます。H5N1ウイルスは、少なくとも1996年以降には鳥類で保有されており、ヒトへの感染も600例ほど知られています。しかし、まだ哺乳類において高効率で感染できるようになっていません。この能力が獲得されていないのは、本来備わっている生物学的な制限など、相応の理由があると考えられます。

今回の2つの研究チームが行った実験では、哺乳類に適応するようH5N1ウイルスを人為的に進化させており、自然界に存在すると思われる障壁(種の壁)を乗り越えてしまったのです。ただし、研究室でこうした適応が成立したからといって、同様なことが自然界でも起こりうるわけではありません。

我々はまた、ほかの動物種の潜在的役割、およびそれらの動物種に及ぼす影響も考慮する必要があります。ブタは、インフルエンザウイルスの「混合容器」として知られており、ブタでの混ぜ合わせで、抗原を変化させた新型ウイルスが出現すると考えられています。これは、ブタが、気道の上皮細胞表面に、糖鎖とα2,6結合するシアル酸(H1N1ウイルスが受容体として利用)とα2,3結合するシアル酸(H5N1ウイルスが受容体として利用)の両方を持ち、H5N1ウイルスにもA(H1N1)pdm09ウイルスにも感染しやすいためです。しかし、ブタはH5N1ウイルスを伝播(でんぱ)しにくく、また、ブタでのH5N1ウイルスの病原性もそれほど高くありません。ただし、糖鎖とα2,6結合するシアル酸にH5 HAが結合できるようにする操作によって、ブタ間でのH5ウイルスの伝播率が高まる可能性があります。現在、家畜として飼われているブタは、世界全体で20億頭と推定されています。ブタ間を伝播可能で罹患(りかん)率と死亡率の高いインフルエンザウイルスが出現すれば、世界の食糧供給に壊滅的な影響が出るだけでなく、ブタが中間宿主としてウイルスのヒトへの適応を仲介する可能性があります。

また、イヌやネコも、H5N1およびA(H1N1)pdm09に感染します。ヒトは、イヌ、ネコ、ブタのいずれとも緊密に接触するため、変異したH5ウイルスが、ヒトを含めたこれら4種の哺乳類の間で行ったり来たりする可能性があることを念頭に置く必要があります。このことで、疾患対策がかなり複雑になると思われるからです。

河岡らの論文に報告されているH5 HA/H1N1変異だけでは、哺乳類に感染可能な高病原性の完全なH5N1鳥インフルエンザウイルスを構築する「設計図」を得るには不十分であり、さらなる変異が必要だと思われます。それでも公表にはリスクが高いと考えるのは、なぜでしょうか?

河岡らの特殊なウイルスと変異が、パンデミックを起こすほど恐ろしいH5N1株になるかどうかが問題ではないのです。問題は、彼らが研究室で、自然界に存在するとみられる「進化の障壁」を乗り越えるウイルスを作り出してしまったことです。もし、手違いやテロによって、このウイルスが研究室外に出てしまったら、パンデミックの可能性について諮問が必要になるでしょう。

河岡らの研究は、その可能性を確認し、彼らの特殊なウイルスが、哺乳類間で伝播できるウイルス作製の適用候補になることをはっきり示しています。この研究は、壊滅的被害をもたらしかねないH5保有ウイルスの作製の可能性を大きく高めます。この改変H5 HAウイルス遺伝子は、パンデミックに結びつく可能性のあるほかのインフルエンザウイルス遺伝子との組み合わせができうるのです。

パンデミックはおそらく起こらないだろうと単純に信じて、それに賭け、結果的に市民の健康や安全を危険にさらし、なおかつ、それによる経済的損害をこおむる危険を冒そうと思いますか。

Nature 独自のアドバイザーのうち数人は、H5 HA/H1N1をもとにしたインフルエンザウイルスがバイオテロに使われる見込みは低いと感じています。特定のヒト集団だけを狙うことができず、対処するためのワクチンや薬品もすでにあると考えられるからです。なぜ、NSABBは懸念しているのでしょうか?

インフルエンザウイルスの悪用法や悪用の動機を関知していなくても、悪用された結果、壊滅的被害を招くかもしれないのです。考えられるシナリオとして、孤独なマッドサイエンティストや追い込まれて自暴自棄になった独裁者、千年紀の世界終末を信じるカルト宗教のメンバーから、敵も味方も巻き込んでの破壊的結末をたくらむ国家やバイオテロリスト、心神喪失・心神耗弱による無差別的な犯罪まで、さまざまなものがあります。こうしたことが起こる確率は低いとはいえ、もし起これば、自然界には存在しない新しいH5N1ウイルスが進化するための「種」が環境内に持ち込まれることになります。新しいウイルスが、すぐさまパンデミックを引き起こすとは思われませんが、パンデミックにつながる進化の新しい道を歩き出す可能性はあります。

H5N1ウイルス用のワクチンや抗ウイルス薬はすでにありますが、世界のどこにでも十分な量があるわけではなく、パンデミックが起こった場合、こうした医薬品でできることは限られていると思われます。ワクチン製造能力にしても製薬業界にしても、70億人に影響が及ぶとみられるパンデミックの進行の速さにはついていけないでしょう。先にも述べたように、人々にはH5保有ウイルス群に対する免疫がないのですから。さらに、2011年10月に発表された研究によると、インフルエンザワクチンはこれまで考えられていたよりも効果が低いようです4。また、使える抗ウイルス薬は現在、ノイラミニダーゼ阻害剤だけで、しかも、A/H5N1ウイルスでの耐性がすでに報告されています5

Nature 独自のアドバイザーのうち何人かはまた、河岡らの論文には、監視と予防の準備のための重要な情報も含まれていると考えています。これには反対ですか?

この研究の第一の有益性は、H5N1ウイルスがもたらすと思われる脅威に対して人類に警鐘を鳴らしたことです。H5N1のパンデミックに対して、どれほど準備ができていないかを伝えることは重要です。初めはNSABBの一部メンバーも、監視を強めるための情報交換が必要であると主張しました。しかし、さらにこの問題を吟味した結果、そうした意見はトーンダウンしました。

今回の研究の実質的な有益性は限定的なものだと思われます。なぜなら、ヒトに感染できるH5N1が進化する道筋はたくさんあるからです。したがって、この論文で報告されている特異的な変異が、監視や対応策の開発をするうえでどれくらい有用かはわかりません。場合によっては監視法を誤らせる可能性さえあります。さらに、ヒトやほかの動物において単一のウイルスでこうした変異を検出できても、十分な準備時間を確保して、効果的な公衆衛生対策および安全対策で先手を打ち、パンデミックを未然に阻止できる見込みは低いでしょう。

2005年、1918年流行の高病原性インフルエンザウイルスを再構築した論文では、情報が完全に公表されました6。なぜ、今回の研究を2005年の研究よりも危険性が高いと考えるのですか?

1918年H1N1ウイルスを再構築した論文の公表を勧めるべきとする2005年の決定は、十分な議論の末に満場一致で下されました。この善にも悪にも利用される可能性のある研究が、情報を制限する必要がありそうな境界すれすれだ、という認識もある中で判断されたものです。当時のNSABBは、1918年H1N1ウイルス研究の論文に対して、情報公開の制限が必要なほどの懸念があるとは考えていなかったのです。その主な理由は次の2つです。

1つは、1918年のパンデミックによって、1918 年H1N1ウイルスが自然界にすでに存在していたことです。このウイルスと派生系統ウイルスは、1957年まで世界のヒト集団内を循環し続け、その後、1977年に再び大流行しました。このことから、大流行時に獲得された既存免疫の集団内のレベルには、臨界値があるのではないかと考えられました。2009年になってこの臨界値説は否定されましたが、ヒト集団がA(H1N1)pdm09にさらされたことで、1918年H1N1ウイルスに対する防御効果がある程度もたらされ、このウイルスが現在伝播する可能性が大きく低下していると考えられます。

もう1つは、1918年H1N1ウイルスの再構築につながった8個の変異が、1918年インフルエンザの死亡患者由来の肺の病理標本やアラスカの永久凍土から掘り起こされた死亡患者の組織を、法医学的にのみ解析した結果、得られたものだったことです。2005年の時点では、悪意を持った誰かが、1918年H1N1ウイルスを作るために必要な遺伝子群を合理的に集めて組み立てるおそれは、ほぼないだろうとされていました。しかし現在、この考え方は妥当性を失っています。

NSABBは、H5N1伝播の研究だけを特に心配しているのですか?

我々は、インフルエンザウイルスの毒性を強めたり、異種間もしくは宿主間の伝播を促進させたり、入手可能な薬剤やワクチン誘導性の免疫に対する耐性をウイルスに持たせたりするといった、あらゆる種類の研究を絶えず懸念しています。したがって、現在ほかの動物種に感染しているさまざまなインフルエンザウイルス変異株についても、注意を払っています。というのも、こうした変異ウイルスの一部が、適応して哺乳類へ伝播できるようになったり、適応済みウイルスの毒性を強めるための「素材」の源となったりする可能性が、今回の2つの研究2,3から示唆されたからです。

鳥その他の高病原性インフルエンザ株の実験は、事前に慎重に吟味すべきです。今のところ、善悪両用の懸念のある研究に関する企画書や論文を選り分けるための公式規準は、論文著者や学術ジャーナル編集者、論文審査員による判定以外には存在しません。NSABBは、米国でそうした研究を幅広く監視する制度を導入するよう提言しています7

我々は、科学、公衆衛生、政策にかかわるすべての人々が、善悪両用が懸念される研究の範疇に入る実験について議論を交わす場を設けるべきだと考えています。

(翻訳:船田晶子)

参考文献

  1. Berns, K. I. et al. Nature 482, 153–154 (2012).
  2. Kawaoka, Y. et al. Nature (in the press).
  3. Fouchier, R. et al. Science (in the press).
  4. Osterholm, M. T., Kelley, N. S., Sommer, A. & Belongia, E. A. Lancet Infect. Dis. 12, 36–44 (2012).
  5. de Jong, M. D. et al. N. Engl. J. Med. 353, 2667–2672 (2005).
  6. Tumpey, T. M. et al. Science 310, 77–80 (2005).
  7. National Science Advisory Board for Biosecurity. Proposed Framework for the Oversight of Dual Use Life Sciences Research: Strategies for Minimizing the Potential Misuse of Research Information (NSABB, 2007); available at http://go.nature.com/s7cpo7

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