風が運び去った放射性降下物
原文:Nature(オンライン掲載)|doi:10.1038/nature.2013.12528|Much of Fukushima’s fallout was gone with the wind
原発事故によるがんリスクの上昇は、数か所の放射線ホットスポットに集中している。
2013年2月28日、世界保健機構(WHO)は、2011年に日本の福島第一原子力発電所で発生した事故が人々の健康にほとんど影響を及ぼさないことを示唆する報告書を発表した。その内容は、どちらかというと人々を安堵させるものであったが、数か所の高線量地域(ホットスポット)に住む人々のがんのリスクは、わずかではあるが有意に増加するようだ。
福島第一原発事故は、1986年のチェルノブイリ原発事故以来、最悪の原子力事故となった。この事故に関する今回の報告書の内容は、見かけほど安心できるものではない。日本は、たまたま事故当時の気象条件が有利に働き、原発から放出された大量の放射性物質の直撃をかわすことができただけなのだ。事故当時の卓越風(その場所で最も頻繁に吹く向きの風)のパターンは、放出された放射性物質の大半が海の方に吹き飛ばされたことを示唆していた。そのため、今回の報告書の内容は、将来原発事故が発生した場合に人々の健康にどのような影響を及ぼすかを推定する際に、ほとんど参考にならないことになってしまうのだ。
東フィンランド大学(クオピオ)の放射線生物学者 Keith Baverstock は、「今回は風向きに助けられましたが、そうでなかったら、チェルノブイリより深刻な結果になっていた可能性もありました」と言う。
WHOは2012年に、福島第一原発の周辺住民の被曝量を評価した(Nature 485, 423–424; 2012)。今日の報告書では、その結果に基づいて、原発事故が周辺住民の健康に及ぼす影響が評価された。
この報告書は、放射線の危険と公衆衛生に関する国際的な専門家パネルによって作成されたもので、日本のほとんどの地域(福島県の大部分も含まれる)と近隣諸国では、原発事故によりがんリスクが上昇することはないと結論付けている。しかし、飯舘村や浪江町など、原発から北西方向に流れたプルーム(放射性雲)からの放射性降下物によって汚染されたホットスポットでは、がんのリスクはわずかに上昇していた。
WHOの専門家パネルは、福島第一原発からの放射性降下物により、ホットスポットの小児ではほとんどの種類のがんのリスクが数パーセント上昇し、特に、女児の甲状腺がんのリスクは70%上昇すると推定した。ただし、これらの数字は相対的なリスクを示すものであり、絶対的なリスクは、それほど深刻なものではない。例えば、女性の生涯にわたる甲状腺がんのリスクは0.75%であり、これを基準にした相対的なリスクが70%上昇したということは、ホットスポットの女児の甲状腺がんリスクは0.50%しか増加していないことになるからだ。
放射線影響研究所(広島)の研究リーダーであり、WHOの報告書の共著者である Roy Shore は、「若者における被爆に関連した甲状腺がんの推定発生率が1万人当たり3.2人と非常に低いことを考えると、通常の疫学的アプローチで原発事故による上昇分を検出するのは不可能でしょう」と言う。原発の緊急作業員については、その3分の1が、がんリスクはほとんど上昇しないと予想されたのに対して、残り3分の1は、わずかだが有意に上昇すると予想された。
専門家の間では、おそらく今後数週間から数か月間にわたって、この報告書をめぐる激しい議論が交わされることになるだろう。報告書がよくできていることは多くの研究者が認めているが、リスクの評価にあたり、調査対象集団の被曝量を直接測定することなく線量モデルに頼った部分が多く、データの水準も最適とは言えないことが多かったのも事実であるからだ。
「原発事故が公衆衛生に及ぼす影響の見積もりに興味を持つ研究者にとっては、信頼できるデータの不足が大きな問題になっています」と Baverstock は言う。「この問題は、まだ解決されていません。WHOのデータの質が、私たちが持っているデータとたいして変わりない場合、その見積もりにはあまり価値がないことになります」。
インペリアル・カレッジ・ロンドンの放射線保健学の専門家である Geraldine Thomas は、WHOの報告書はがんのリスクを過大に見積もっている可能性があると指摘する。報告書の著者らは、さまざまな仮定において、明らかに慎重すぎる方向に間違いを犯しているからだ。「調査対象集団の中で、生涯被曝量が、1回の全身CTスキャンでの被曝量以上になる人は、ほとんどいないでしょう」と彼女は言う。
これに対して、環境保護団体のグリーンピースは、WHOの報告書には問題があると主張する。グリーンピース・インターナショナルの核専門家 Rianne Teule は、「WHOの報告書は、福島第一原発から半径20kmの避難区域内に住んでいながら迅速に避難することができなかった人々が、事故当初に放出された放射性物質から受ける影響を軽視するというイカサマをしています」と指摘する。
Baverstock は、福島第一原発事故が人々の健康に及ぼす影響が小さいように見えるのは、偶然によるところが大きいのかもしれないと言う。「今回の事故が人々の健康に及ぼす影響が、チェルノブイリ原発事故よりも小さかったのは、事故当時、風が太平洋に向かって吹いていて、その近くに人がいなかったという幸運に恵まれていたからです」と彼は言う。福島第一原発から東京までの距離は200kmにも満たない。「もし、風が東京に向かって吹いていたら、全く違った話になっていたでしょう」と彼は言う。
(翻訳:三枝小夜子)